南アジア:グラウンドゼロ近くのモスク建設に対するブロガーたちの反応

グラウンドゼロの近くでのモスク建設に抗議するため集合したアメリカの人々(Image by Flickr user asterix611 CC BY-NC-ND)

2001年9月11日に発生した米同時テロ跡地近くにパーク51という名前のイスラムセンターあるいはモスクを建設することについての論争が世界中のブロゴスフィアで繰り広げられている。アメリカのいくつかのグループは同時テロ跡地に近いことやその資金源を理由として建設に反対している。また、この問題に関するメディアの報道は偏った意見やイスラム恐怖症をあおり立てるものとしてかなり批判されている。ブログ中での論争も非常に多様で、なかには強引なものもあり、これらをひとつの記事に要約するのは難しい。この記事では、南アジアのブロガーたちによる興味深い話についての断片を見てみたいと思う。

バングラデシュのBabuBanglaSachalayatanというブログで、アメリカ人が同時テロ跡地近くのモスク建設に対して神経質になっていることについてこのように書いている :

আইনগত অধিকার ও সামাজিক ন্যায় বিচারের প্রশ্নে এই মসজিদ নির্মাণে কারো আপত্তি থাকবার কথা নয়। কিন্তু ৯/১১ হামলায় নিহতদের পরিবার ও আমেরিকার নাগরিকদের অনুভূতির সংবেদনশীলতার প্রশ্নটি বিবেচনার দাবী রাখে। ইসলামের নাম ব্যবহার করে এই হামলা হয়েছিল। এখন যতই সকল মুসলিম খারাপ নয় জাতীয় বাণী দেই না কেন, এই হামলার সাথে মুসলিম ও ইসলামের নাম জড়িত থাকার বিষয়টি তো আর মুছে যায় না।

আগামী দিন গুলোতে বাংলাদেশে যারা এই “গ্রাউন্ড জিরো” প্রসঙ্গটি আড্ডায় বা মিডিয়ার আলোচনায় আনবেন, আমেরিকার মানুষের এই সংবেদনশীলতার বিষয়টিও সহানুভুতির সাথে বিবেচনায় রাখবেন বলে আশা রাখি।

もし私たちが法的に認められた権利や社会正義について考えてみると、誰もこのモスク建設に異議を唱えることはないだろう。しかし、同時テロの犠牲者の友人や家族が神経質になっていることもまた考慮に入れるべきだ。その攻撃はイスラムの名の下に実行された。すべてのムスリムがテロリストなのではない、と現在我々が宣言しているとしても、この事実はぬぐい去られるものではない。

バングラデシュ人が「グラウンドゼロ・モスク」について討論するとき、彼らがアメリカ市民の心情について考慮することを期待したい。

E-Bangladeshのバングラデシュ人ブロガーであるNayeem Hossainはアメリカのモスクがムスリムのコミュニティを、より主流文化に近づけることに効果があるのかについて疑問を呈している :

なぜイスラムセンターについてそのような論争が行われているのか?アメリカにおけるイスラムのいわゆるfree Willy実践者が彼ら自身に尋ねたのか?現在彼らはリベラルの後ろに隠れているが、いくつのこうしたモスクが実際にうまくムスリムのコミュニティを主流文化の中に溶け込ませられているのか?[..]

多文化国家において、少数民族のコミュニティが孤立してしまわないようにすることは重要である。しかしアメリカ人にとっては、それがたくさんのマイノリティのコミュニティに対する認識なのである。もし突然、彼らがムスリムのような宗教的マイノリティについてもこれと同様に考えるとすれば、我々はなぜ、そしてどのように変わらねばならないか、自問する必要がある。

Random Thoughts Of A Demented Mindのインド人ブロガーであるGreatbongは議論に夢中になっている両サイドの人々を比較してこのように述べた:

キリスト教保守のニュート・ギングリッチ、サラ・ペイリン、Sean Hannity、Glen Beck らや、彼らの嫌悪を伝える媒体であるフォックス・チャンネルはいつも不安をあおり立てている。その目的は、一般に大部分のアメリカ人がイスラムやヒスパニックについて無知であることにつけこんで、この経済が不安定な状況下において怒れる大衆をもっぱら刺激することにある。彼らはアメリカ国内にモスクを建設することを妨害することを目指しているのだ。そして、セプテンバー11モスクは、ひとつの宗教全体を悪者扱いし、アメリカのイスラム化という滑稽な妄想を提起するいう大きな計画の中の小さな部分であるにすぎない。「サウジアラビア人がメッカの隣に教会を建てることを許可するか?」と、彼らは嫌味を込めた言い方でイスラム国家の偏狭さについて驚嘆の意を表明する。もちろんこれはアメリカにおいても同じように不寛容さを反映させることを求めているのである。(インドにおいては、なぜ我々はパキスタンのようにならないのかという同じような意見を聞くことがある。)

一方、いわゆるリベラル側もこれに立ち向かっている。彼らの主な武器である言葉 (その建物はウェブサイトではモスクと呼ばれていても、あえてパーク51もしくはイスラムスタディセンターとして言及し、そのことがいかにファッショナブルかといったような)は たたき台となる議論を生み出してきている。[..]

私にとって、この問題に関するすべての事の「正確さ」についてのすべての討論におけるスタート地点となるはずの疑問はもちろん、イマームとその海外の匿名支援者がモスクではないものを建てる、もしくはマンハッタンにモスクを建てるのではなく、容易に人々の反対に直面することを予想できるにもかかわらず、あえてグラウンドゼロにかなり近い場所にモスクを建てることにこだわったのか、である。

Pakistanis for PeaceManzer Munir少数の過激派のせいで、ムスリム世界全体がひどく扱われているという現在の危機について警告する:

グラウンドゼロから数ブロックの場所にモスクを建てることはどことなく異常で、無神経であるというモスク建設反対派と保守派の考えは実際のところ、少数のイスラム教過激派ではなくムスリムとイスラム教全体が世界貿易センタービルを打ち倒したのだ、という信念に我々が賛成するときのみ成立する。もしも我々が、オサマ・ビン・ラーディンとアルカイダではなく、イスラム主流派自体がアメリカの土地で死んだすべての人々に責任があると信じるならば、その時こそモスクをその場所に建てることが無神経であるといえよう。しかし我々にしてみれば、150億のイスラム教徒たちが19人のテロリストたちの行動になんらかの関係があったと考えるのはばかげている。

我々はイスラムと戦ったのではなく、テロと戦ったことを思い起こすべきだ。アメリカ全土のグラウンド・ゼロから遠く離れた都市で、多くのモスクが地元のコミュニティと対立しているが、我々は合衆国憲法の理想や原則に忠実でなくてはならない。世界で最も良い国として、我々は理想と、我々を最良の国とする基礎である合衆国憲法を守らねばならない。1人のムスリムとしてではなく1人のアメリカ人として言いたいのだが、もし不快になる、無神経になるあるいは不親切になることを恐れてそれを守らなければ、その時にはこの国を世界で最も自由な国家たらしめるものが失われることを私は知っている。 そして、そのようなことは決してあってはならない!

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