ネルソン・マンデラ:東ティモールの永遠の友、そしてインドネシアバティックのファッション・アイコン

(記事中のリンク先はすべて英語のページです)

バティックを着たネルソン・マンデラさん…大好きな人です。

南アフリカで反アパルトヘイト(人種隔離政策)闘争を主導し、黒人初の大統領となった英雄ネルソン・マンデラ氏の死が、東南アジア諸国でも悼まれている。この地域では、マンデラ氏は東ティモールの独立紛争を支持した指導者として、またインドネシアの伝統的なバティック(訳注:蝋で防染して文様を表した綿布)で作られたシャツを世界に広めた最も有名な人物としても記憶されている。

マンデラ氏は獄中生活から釈放された1990年にジャカルタを訪れ、当時の大統領スハルト氏から記念にバティックシャツが贈られた。やがて国際的な集まりの場でも、バティックシャツはマンデラ氏のトレードマークの服装となった。このことは、インドネシア元副大統領ユスフ・カラ氏をはじめ首脳陣に感銘を与えた

He had the courage to wear batik during a United Nations’ session. Even I might have had doubts wearing a batik shirt and speaking before the audience at a UN meeting.

マンデラ氏は、国連総会の期間中にバティックを着用するという思い切ったことをしました。インドネシア人の私でさえも、国連会議の聴衆の前でバティックシャツを着てスピーチすることには不安を感じたでしょう。

マンデラ氏が愛用していたバティックシャツには、インドネシアバティックの巨匠イワン・ティルタ氏がデザインしたものもある。南アフリカでは、バティックシャツが次第にマディバシャツ(訳注:「マディバ」はマンデラ氏の愛称)として知られるようになった。イワン氏は、バティックがマンデラ氏の闘士としてのカリスマ性を高めたと信じる。

Mandela is a strong prominent figure who suits my batik collection. He does not only look appealing, but his fighter’s charisma is enhanced even more when he wears batik.

マンデラ氏は、私がデザインしたバティックコレクションが似合う、力強く卓越した方です。彼がバティックを身に付けると、魅力的なだけでなく、彼の闘士としてのカリスマ性が一層高まります。

ジャカルタ・グローブの社説では、インドネシアの首脳陣に対しマンデラ氏の統率力を見習うよう促している

His passing is a moment for all of us to reflect on our own lives. Too many politicians today, including those in Indonesia, are too self-centered and concerned with immediate gain rather than working for a long-term goal.

マンデラ氏の死は、私達全ての人に自分の人生を省みる機会を与えてくれている。最近は、長期的な目標に向けた取り組みよりも、目先の利益ばかりを気遣う自己中心的な政治家がインドネシアを含め多すぎる。

ツイッター上では、バティックをこよなく愛したマンデラ氏へ、インドネシアの人々から賞賛の声が寄せられている。

国を変えた英雄としてネルソン・マンデラさんは多くの人の記憶に残るでしょう。私達はバティックの大ファンだったマンデラさんを忘れません。

ネルソン・マンデラさんのご冥福をお祈りいたします。インドネシア人よりもバティックのコレクションを持っていた唯一の外国人のように思います。

バティックはインドネシアの特産品です。でもそのバティックを生涯にわたり熱心に着ていたのはネルソン・マンデラさん1人でした。マンデラさん、あなたを誇りに思います!

ネルソン・マンデラさん、安らかにお眠りください。私達の励みとなり、平等の意味を教えてくれたことに感謝します。そして私達のバティックを愛してくれて有難う。

インドネシアを代表するバティックを着たネルソン・マンデラさんを私達は誇りに思います。

マンデラさん、インドネシアの人々はあなたを誇りに思っています。バティックを世界に広めてくれてありがとう。安らかにお眠りください。

一方、ジャーナリストのAboeprijadi Santoso氏は、東ティモールで起こった解放運動の威信を高めたマンデラ氏の役割を認めた。1997年11月、マンデラ氏はスハルト氏と会談し、インドネシアからの独立紛争を主導したとして投獄されいたシャナナ・グスマン氏との面会を要求した。Aboeprijadi氏はこのように書いている

Mandela’s intervention and encounter with Xanana became public relation’s greatest victory for the Timorese. The 1997 momentum had, therefore contributed to the changing circumstances and awareness among both the Timorese resistance and in the international community.

マンデラ氏が東ティモール問題の仲裁に入り、彼と似た境遇のグスマン氏と出会ったことは、東ティモールの人々にとってジャーナリズムがもたらした偉大な勝利となった。1997年に高まった機運が東ティモールの抵抗軍と国際社会の両方の状況や意識の変化をもたらす一因となったのだ。

ネルソン・マンデラは東ティモールの永遠の友だ。彼は、当時拘束されていたシャナナ・グスマンに面会するためにジャカルタでスハルトと戦ったんだ。

シャナナ・グスマン氏は、当時の歴史的な面会の情景を思い起こした

He had told Suharto that it wasn’t possible for him to avoid bringing up the problem of East Timor since prior to his departure from Africa various human rights organisations had demanded that he do just this. And he had requested a meeting with me. At first, Suharto didn’t accept the request. However, Mandela explained to the dictator that when he himself was in prison he had received visits from various foreign entities (he named them all one by one, but I don’t remember now who they were) and also South African government officials. And apparently this had the effect of changing Suharto’s mind. He told me that his intervention was in the context of achieving peace, and he spoke of the need for peace …. and we began our meal.

マンデラ氏は、東ティモール問題を持ち出さない訳にはいかないとスハルト氏に言いました。インドネシアへ出発する前に、色々な人権団体から要求があったからです。マンデラ氏は私との面会を申し入れましたが、スハルト氏は最初はその要求を受け入れませんでした。そこでマンデラ氏はスハルト氏に彼が刑務所にいた当時の話をしました。マンデラ氏との面会を求めて様々な国から訪問者が来たそうです(彼は1人1人名前を挙げて説明してくれましたが、その名前は今では記憶していません)。そしてその中には南アフリカの役人もいたそうです。この話がスハルト氏の気持ちを変えたようでした。マンデラ氏は私にこう言いました。東ティモールの平和実現に向けて仲裁に入っていると。そして平和の必要性を語り…、私達は食事を始めました。

校正:Hana Tanioka

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