フランス:1961年パリで起きたアルジェリア人虐殺の政府公認を要求

1961年10月7日 、アルジェリア戦争真っ直中、Fédération de France du FLN(民族解放戦線)[fr]によって組織されていたアルジェリア人がパリ市で行っていた平和的なデモを、モーリス・パポン命令の下、パリ警視庁の治安部隊が非情な形で鎮圧した。彼らは、自分たちだけに課せられた外出禁止令に抗議していることころだった。

歴史家 ジャン=リュック・エイナウディ[fr]によると、少なくとも200人のアルジェリア系フランス人が橋から放り投げられるか、銃殺されるか、もしくはこん棒で殴られ死亡した。しかし警察署長による翌日の記者発表では、2人のデモ参加者が死亡し、数人が負傷したと報じた。

50年後、これらの報道による数字が、歴史家エイナウディとブリュネの間で論争の対象[fr]となっているが、未だ右派の政治家や歴史家たちはこれらの数字を 重要視せず[fr]、政府も沈黙を守っている。

1961年10月17日、フリッカー上でのillicomacheによる追悼 (CC BY-NC 2.0)

1961年10月17日、フリッカー上でのillicomacheによる追悼(CC BY-NC 2.0)

その後8人の死者を出した、1962年2月8日の地下鉄シャロンヌ駅での警察の暴行はより大きな関心を集めた。今や至る所で、1961年の悲劇をフランス政府が認めるよう要求する声があがっている。

政府公認を要求

2011年10月12日、ウェブサイトMediapartは、「1961年10月17日、パリで起きたアルジェリア人虐殺の政府公認を要求」[fr]というオンラインページを立ち上げた。このページには、全く予想外だったフランスの左派の政治家が署名したのみならず、多くの著名人が名を連ねている。嘆願書はまだ受付中だ。

この悲劇を政府が認める時が来た。この記憶は、アルジェリア人のものだけでなく、同様にフランス人のものでもある。忘れさられていた1961年10月17日の犠牲者は、フランスで働き、住居を構え、生活を送っていたのだ。我々は、記憶に留めておくという基本的な正義を行使する義務を彼らに負っているのだ。

今年の10月17日(2011年)、この考えに同調するマスコミもあった。ル・モンド紙[fr]はオンライン上で、以前は見られなかった1961年の写真を掲載し、OWNIは「1961年10月17日フランスの恥」と題して、当時の逮捕者のインフォグラフィック を掲載した。

公営ラジオ放送局FranceInterは、「歴史の流れ」の番組内で「フランス警察と北アフリカ人、1945年―1961年」を取り上げた。ここ[fr]からポッドキャストが利用できる。またFrance-Cultureは、 特集記事[fr]を「1961年10月17日 弾圧の傷痕」と名付けた。

Rue89に掲載された意見記事では、アメリカ人歴史家Robert Zaretskyが、1961年10月17日の出来事や、その後の影響を詳しく 紹介した[fr]。

10月17日、ドゴール主義派のニコラ・サルコジ政府は、今日まで沈黙と混乱に包まれたまま50周年目を迎えた虐殺事件を無視する構えで、これは過去と現在、また現代のフランスにおけるフランス人とアルジェリア人の複雑な関係を浮き彫りにしている。

ウェブサイトbastamag.netは、フランスの植民地政策に詳しい歴史家、ジル・マンスロンのインタビューの中でフランス政府の沈黙の理由を明らかにしようと[fr]試みた。マンスロンは、この事件を隠蔽したいという確かな思惑が存在していたと述べ、そのベールがいかにして徐々に上げられていったのかを説明している。

こうした事はこれまで何度も行われた。1972年 ピエール・ヴィダル=ナケは、彼の著書La La Torture dans la République(共和国の苦悩)の中で、1961年10月17日の虐殺を「パリはまさしく大虐殺の様を呈していた」と振り返っている。1980年10月17日、Libérationは「19年前:パリ中心部で人種差別的虐殺」と題した数ページにわたる特集記事を組んだ。20周年にあたる1981年、Libérationはこの論争を再度取り上げ、ル・モンド紙もそれに続いた。そして初めて1961年10月17日の出来事がテレビで議論されたのだ。Antenne2がMarcel Trillat とGeorges Mattéiからのレポートを放送した。1984年、ディディエ・デナンクスの小説Meurtres pour mémoire(記憶のための殺人)でも、これらの出来事が回想された。

しかしこれらの文書は非常識で、何の影響も及ぼさなかった。事実ではないように思われていたのだ。そして1990年代がくると、ジャン=リュック・エイナウディが記した問題作La Bataille de Paris – 17 octobre 1961(パリの戦闘―1961年10月17日)が出版され、Mehdi LallaouiのLe Silence du fleuve(沈黙の川)が公開された。移民の子供である若者達がこの出来事を取り上げたのだ。これら全ての要因と異なるプレイヤーによって、ついに真実が再浮上することとなった。

ブロガーbibiは、記憶のための殺人を読み、これらの出来事について意識を高めてもらおうとコメントを寄せた[fr]。

権力者を通じて、フランスは歴史に対する傲慢な説教者と化している。一番最近の教訓はサルコジだ。彼は、トルコによるアルメニア人虐殺についてわめき散らしたが、彼が1961年10月17日に起こった虐殺事件を完全に忘れていることは明白だ。アルジェリア人が自分たちだけに課せられた不当な夜間外出禁止令に抗議していたその日、フランス警察がセーヌ出身の警察署長モーリス・パポンの命令下で、抵抗するアルジェリア人をセーヌ川へ放り投げたのだ。

Bondy Blogには、Chahira BakhtaouiがYasmina Adbiによるドキュメンタリーフィルム、Ici on noie les Algériens (そう、彼らはアルジェリア人を溺死させた) について解説している [fr]。またSara Ichouは、虐殺当時27歳だった彼女の祖母と8歳だった叔母にインタビューを行った[fr]。

事件を知ったのはいつですか?
翌日から数日間です。テレビがなかったので。その時は、死亡した人がいると知りました。警察がアルジェリア人をセーヌ川へ投げ込んだとも。周りの人々が悲しんでいたのを覚えています。自分たちの国のため、独立や権利のためにデモに参加し、殺されて川へ投げ込まれた人もいました。本当にひどかった。でも、私たちが多くの人々が亡くなった事を知ったのは、後日のことでした。当時はフランス領アルジェリアの時代でした。でも、私が話していることは全て、8歳の少女の記憶でしかありません。私は、政治のことはあまりわかりませんでしたが、戦争中で、国のためにデモをしなければならないことは知っていました。それは大人たちから聞いていました。私はそういった風潮の中で両親と暮らしていました。1961年10月17日には、そういった恐い思い出があるだけです。私が覚えているのは、強烈な印象だったからです。どんな時でも、デモの中にはいつも復讐したり、人を殺したり、何でもする人々が来たりします。通常、デモというのは平和的なもので、人々は自分たちの権利のためにデモに参加するのであって殺されに来るのではありません。その一方で、殺しにやってくる人はデモに参加するのではないのです。彼らは人種差別者で、アルジェリア人のデモがあるから、そこにアラブ人や役に立たないような人間がいるからやって来たんです。だからアルジェリア人が川へ落とされるのはしょうがないのです。悲しい歴史の一ページですが、不幸にも全ての戦争がそんな風なのです。それが問題なのです。

Mediapartはフランス内で記念イベントが行われた場所を示した地図 [fr] を、オンライン上に載せている。

アルジェリアでは、記念切手が発行され、Slate Afriqueでは、Akram Belkaïdがthe Massacre d'État((国による大虐殺)[fr]を、Afric.comでは、Nuit oubliée(忘れられた夜)[fr]を振り返っている。

El Watanの論説委員は、「否認後に認める」という見方を望んでいるが、Courrier International の記者は、自分が思い出す [fr]のは、1988年10月[アルジェリアでの民主主義革命の暴動の日]だと述べている。

この投稿記事のリンクのいくつかは、@Celestissima が情報源であった。

この記事は英語圏の読者のために要約、編集した。

校正:Ayumi Nakajima

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